式尉 四十年分の
やっとやっとやっと永いお休みになって、私は急いで式尉の元へ向かっていた。
彼と逢うのは本当に久しぶりで、早く早くと気ばかりが急いてしまう。
待ち合わせ場所は決めてないけれど、今の私には彼がどこにいるかが手に取るようにわかる。
ほら、やっぱり式尉がいた。
「式尉!逢いたかった!!」
「おっと、飛びついてくるなんて珍しいな」
「だって、だって、ずっとずっと逢いたかったから……遅くなってごめんね」
「たった四十年待ってただけだ。しっかし、やけに若ぇ姿だな。最期は皺くちゃだったろ?」
「もう!意地悪!」
「ははは!」
私を抱きとめた式尉は大きな体を揺らして豪快に笑った。
式尉は私が最後に「お仕事、いってらっしゃい」と見送った時の姿のままで、そのことは想定済みだったから私も当時の姿で駆けつけたのに。
ひとしきり抱き合って、式尉が体を離したかと思うと少し先の真っ白な地面を指さす。そこにはぽっかり開いた穴があり、下界の様子が見えると教えてくれた。といっても死者が目に出来るのは身内の姿だけらしい。
式尉に背中を押されて穴に近づき恐る恐る覗き込むと、布団に寝かされた私を取り囲んで泣いている息子や娘、孫の姿があった。お嫁さんやお婿さんたちも泣いていて、私は良い姑だったのかな、と思うと悲しむ子どもたちには申し訳ないけれど口元が緩んだ。
「みんな泣いてくれて嬉しいかも」
「そうだな……」
笑いながら呟くと式尉が同意し、私の頭にぽんと大きな手を置く。式尉は生前と変わらず、優しく頭を撫でてくれた。
「よく頑張った」
その言葉を耳にした途端、堰を切ったかのように私の瞳から涙が溢れた。
“家族を優先できない”
それでも良いのならと私は式尉と夫婦になった。
私も御庭番衆だから式尉がそう告げた時に誰を思い描いていたかは手に取るようにわかったし、彼とは同じ気持ちだった。
妊娠を機に私は一時的に一線を退いて、出産を無事に終えて落ち着いてきたから復職しようとすればまた妊娠――その繰り返しで、おそらく式尉は私に御庭番衆として働いて欲しくなかったんだろう。
そして、私と五人の子どもを遺して式尉は旅立った。
家に憔悴しきった蒼紫様が来て、山中に並ぶ四つの石を見せられた。
ここに般若君、ひょっとこ君、癋見君、そして式尉の首が埋まっていると言う。
式尉もみんなも蒼紫様が大切で、護り抜いて散った。
涙が込み上げてきたけどここで私が泣いたら蒼紫様を更に傷つけてしまうし、みんなの覚悟に泥を塗ってしまう気がした。
「そうですか、式尉もみんなも本望だったと思います。私だって、そうします」
あの時の私の返事は正解だったのか、未だにわからない。
その日を境に私は泣かなくなった。
子どもには私たちのようなはぐれ者にはなって欲しくなくて御庭番衆のことは徹底して隠していた。だから、もし私が突然泣いたら子どもたちから何かあったのかと怪しまれてしまう。そこで父親が亡くなったことを知って、誰かを恨み、憎しみを抱き続ける人生を歩んで欲しくなかった。
「おかあちゃん、おとうちゃんはいつかえってくるの?」
「ちょっと遠くでお仕事してるからね、まだ帰れないの」
「かたぐるましてくれるってやくそくしたのに~」
「あのね、わたしはね、おままごとのやくそくしてるの。おとうちゃんがあかちゃんなの!」
「お父ちゃんが帰ってきたら、たくさん遊ぼうね」
そんなやり取りを何度、何年繰り返しただろう。
式尉が帰ってくると信じていた子どもたちも大きくなるにつれて式尉のことを口にしなくなった。下の子なんて式尉のことを全く覚えていない。
まるで式尉が家族の中から消えてしまった気がして悲しかった。
子育てが落ち着いて子どもたちはそれぞれ巣立って行った。
一人で暮らすには広すぎる家。でも、式尉と二人で選んだ家だったから出て行く気は更々なかった。
私は帰ってこない夫を一人で待ち続けていると周りから思われていたらしい。それを見かねた長男が可愛らしいお嬢さんを連れてきて同居すると言い出した。
長男が妻を迎えて始まった同居生活。
私には姑も舅もいなかったから式尉との暮らしは気楽なものだったけど、お嫁さんは義理の親と同居は嫌じゃないのかな……。
そう思って息子がいない時に尋ねたら「あの人を女手ひとつで育てた人だから」と笑顔で返された。息子の株はよっぽど高いみたいで、照れくさくもあり誇らしくもあった。
少し調子に乗って息子のどこがいいのか聞いてみると、すっぽり包み込んでくれる大きな体と無骨だけどとても優しいところ、そして癖のあるふわふわの髪の毛が好きと頬を赤らめて嬉しそうに答えてくれた。私たちの好みは似ているのね、と思わず目尻が下がった。
三人の息子は式尉によく似ていた。顔立ちや癖毛はもちろんのこと、体格まで似たということは式尉が飲んでいたあの秘薬は子種にまで影響していたのだろうか。
そして娘二人のお婿さんは、どちらも立派な体格の大男だった。
「お父さんに似てるでしょ」
長女がいたずらっぽく笑う。末っ子の次女は父親のことを覚えていないけれど、なんとなく懐かしさを感じてこの人だと決めたらしい。
もし式尉が生きていたら子煩悩な彼のことだから娘たちの結婚には猛反対したはず。でもお父さんに似た人だなんて殺し文句を言われたら勝ち目なんてなくて、泣く泣く頷いたんだろうなぁ。
式尉は子どもたちの中から消えてしまったと思っていたけど間違っていた。式尉はしっかりと子どもたちの中で生き続けていた。
お盆やお正月はそれはもうお祭り騒ぎ。
五人の大男たちはなぜかお互いに張り合って室内で相撲を取り始めたり、腕相撲大会を開いたりしてその度に家具を破壊する。だから外が暑かろうが寒かろうが関係なく、女衆で男たちを叩き出して静かになった室内でおしゃべりに興じた。
もっとも大した話でもなく、各々の惚気話が交わされ、女性は何歳になってもそういった話が好きなんだとわかった。
「あの、お義父さんってどんな人なんですか?」
にこにこ笑って聞き手に徹していた私に、次男のお嫁さんが若干気まずそうに尋ねてくる。そんなに気にしなくてもいいのに。でも今なら式尉のことを話してもいいのかもしれない。
「そうね、長男とよく似てるけど、主人の方がもうひと回り大きかったかな。仕事が終わるといつも子どもたちのために菓子や玩具を買って帰って来てたけど、量が多くて私は無駄遣いしないのって叱ることが――」
「ねぇお母さん、そうじゃなくて一人の男性としてどうだったの?って話!」
「えぇ!?」
目を丸くする私に、五人の娘たちは無言で圧力をかけてくる。
うぅん、一人の男性として……私はずっと“母親”だったから気になるのかな。でも親のそういった話は気持ち悪くないのかしら。それに何を話せば……あ、そういえば娘たちは閨のことを赤裸々に話していた。そのことを言えばいいのかな。
「えっと、式尉は全身に傷痕があってね、それで……」
いざ腹を括って話し始めたけど恥ずかしくなって言い淀んでしまう。しかし、娘たちはそれを許さない。五対の目がじーっと見つめてきて、続きを促していた。
「全身に、傷痕があって……『そろそろ普段は見えねぇところの傷が見てぇだろ?』って決まり文句で夜のお誘いをしてきてたわ」
「うわ……」
「それで傷痕はいくつあったんですか?」
「ふふ、私と式尉だけの秘密よ」
「いいなぁ……私も今度数えてみようかなぁ」
「うちの人は傷ないからなぁ~」
また五人でピーチクパーチク話し始めてほっとする。
温くなったお茶を一口飲んで茶菓子を摘み、まだ子どもを授かる前の式尉との営みを思い出した。
『全身傷だらけなのに、よく切り落とされなかったね』
『おう。昔からガキは欲しかったから両手で股押さえて死守したぜ』
しっとりと汗ばんだたくましい胸板に頬を寄せた私は、股間を必死に押さえている式尉と対峙する十三歳の蒼紫様を想像して笑いが止まらなかった。
ケラケラ二人で笑って、笑い疲れた頃に復活した式尉は私の体に圧し掛かってまた揺さぶり始める。
『おいのかかはわっぜぇむぜ』
いつもの堂々とした様は情を交わす時には姿を隠すらしい。
睦言が恥ずかしいけれどどうしても伝えたい式尉は、私がわからないと思って生まれ故郷の言葉で熱っぽく囁いてくる。
全国の方言はひととおり叩き込まれたからわかるんだけど、それを知られると式尉は二度と言ってくれなくなるだろうから黙っておいた。
記憶にある式尉から贈られた愛の言葉の大半は薩摩言葉だった。
子どもたち全員が家庭を持ってから数年、ちらほらと新しい命が生まれてくる。
孫たちはこの間までふみゃふみゃと泣いていたのに、気がつけば二本の足でしっかりと立ち、あっという間にすくすくと大きくなっていった。
「ばぁば、じぃじは?」
久しぶりにみんなが集まったお盆。三男の娘が無垢な瞳で見つめてくる。どうやら近所のお友達がじぃじと遊んでいるみたいで、それが羨ましいのだという。
遠くにお仕事に行っていると言っても、色々質問してきそうで困ったな。
そんな私に長男が助け舟を出してくれた。
「俺が一番じぃじに似てるらしいぜ」
そう言うと同時に姪っ子を抱き上げ、肩車をして遊び始めた。じぃじ本人のことはすっかり飛んでいったようで、きゃぁきゃぁと楽しそうな声を上げている。
僕も私もと長男の元にわらわらと孫たちが群がる。
次男も三男も背の高さはほとんど変わらないのに、じぃじに一番似ているというところがみそなのだろう。
父親を取られて一緒に暮らす孫娘がぐずってしがみついてきた。
その小さな背中を擦り、私は肩車で盛り上がる輪を眺めた。
中心で笑う長男は今年で三十五歳になった。式尉に追いついて、式尉にしてもらっていた肩車をする側になった。
娘たちは式尉に買ってもらって大切に使っていた玩具やコケシ、おままごとの道具を自分の子どもに譲り、親子で遊んでいる。
『おとうちゃんはあかちゃんだからしゃべっちゃだめよ』
『お父ちゃんは、お婿さんがいいなぁ~』
『だめ!しゃべらないで!おとうちゃんはあかちゃんなの!』
『……あぶぅ』
怒る娘と赤ちゃんを演じていた式尉の姿が浮かぶ。
目の前の光景は、私が一番幸せだったあの頃を思い出させた。
子どもたちは時の止まってしまった式尉をどんどん追い越し、私が得られなかった親子そろっての生活を当たり前のように紡いでいく。そして私のように年老いて孫に囲まれてのんびり老後を楽しむのだろう。
辛い別れもあるとは思うけれど、子にも孫にも幸せになって欲しいと、そう願うのみだった。
そんな四十年間の記憶が駆け巡って、私は肩を震わせた。
幸せに満ちていた。だけど、私の四十年間には大切な人が――式尉が欠けていた。
子育ての正解がわからなくてご近所さんに相談したこともあったけど、本当は式尉と二人で頭を悩ませて、手探りで一緒に育てたかった。娘の嫁入り前夜には肩を落とし、手酌でお酒を飲む式尉の隣に座って、寂しさと嬉しさの入り混じった感情を共有したかった。孫が生まれれば誰よりも真っ先に可愛がる式尉の姿を隣で見ていたかった。歳を重ねて式尉が御庭番衆を退いたら二人で温泉に行ったり、式尉が生まれ育った薩摩に行ったりしたかった。式尉がよく口づけを落としていた私の手の甲は七十にもなると張りが失われてしわしわになったけど、私は式尉と一緒にしわしわになりたかった。
式尉と一緒に四十年の時を刻みたかった。
式尉に先立たれてからあくび以外では一滴の涙も零さなかったのに、式尉のたった一言で私の涙腺はあっけなく崩壊した。
溜まりに溜まった四十年分の涙は止まる気配を見せなくて、大きな雨粒のようにぼたぼたと白い地面に吸い込まれていく。
式尉は頭に置いていた手を私の頬に移動させ、優しく涙を拭い、再び力強く抱きしめてくれた。
「ただいまって言えなくてすまなかった」
「家族を優先できなかったが、今際の際に想ったのはお前と子どもたちだった」
「子どもたちを立派に育ててくれてありがとう。俺の後を追わずにちゃんと生きて偉かったぞ」
ずっと見守ってくれていた式尉からの言葉に、私の四十年間が報われた気がした。
「馬みたいな泣き声だな」
唐突に、本当に唐突に式尉が呟く。
泣きじゃくる私を笑わせようと思ったんだろうけど、さすがに失礼すぎる。意地を張って泣き続けてやると決意するも、歯茎を剥き出しにしてヒヒィンといななく自分を思い浮かべてしまい、くつくつと笑いがこみ上げてきた。
「ほらほら、泣き止んで笑え笑え」
式尉が私の顔を覗き込んでニカッと笑うから、私も頬を濡らしたまま、ニカッと笑顔を返した。するとご褒美のように式尉が口づけを落としてくる。
式尉もこの四十年間、私を抱きしめたかったよね。
何度も何度も口づけを交わしたかったよね。
たくさんたくさん『わっぜぇむぜ』って言いたかったよね。
全部ちゃんと受け止めるから、四十年分のあなたの愛を私にちょうだい。
「おはんをわっぜぇ愛しちょっど」
私がそう告げると式尉は照れくさそうに笑った。